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Posted by TI-DA at
 

2012年07月23日

私の想い     「拳禅一如」町道場の灯り

今や空手愛好家は世界数千万人。先達の希望とロマン、武の階梯は「道」の祖師と無縁ではないと気づけた。当道場が禅に「道」をお尋ねしたのが今から6年前の事です。 
老僧曰く「禅とは心なり、誰か心と縁なき」

昨年の冬・・・夕暮れ、雨の日に坐らされる児童たちにとっては淋しすぎるか?稽古に来る子はいるだろうかと思いながら 先に道場の隅で一人坐す。いつも生徒には私が坐禅中は音を立てず静かに入ってきて一緒に横並びに坐るよう指導している。皆が揃ってから坐る日もあれば今日のような日もある。 現代子の気紛れには慣れているが 幼い彼らにゲームではなく 飽くまでも武道として、伝統空手道の「道」としての求道心を期待するが それは酷だろうか?
 しかしここは道場である。先達の築いた伝統をかなぐり捨てて名利(格闘技、スポーツ競技化)を追い求める風潮とは関わりたくない。 
この寒い雨の道を子供らが道場の灯りを目指し集ってくることを信じる・・・

「来た!」一人、二人・・・ 漲る勇猛心、颯爽たる姿勢、凛々たる気迫こそ伝統を継承する者の意地。
       
        「子らよ、龍が蟠るが如く坐せよ」 

       
       暫し静寂の内にたたずむ子らにこの言葉を贈る

・皆さん「龍」を見たことがありますか?私はあります。
皆さん、龍は一人ひとり「心」の中にいます。私たちは人格という名の龍を持っています。龍はみんなの心の中にいて経験を食べて成長します。だから、私たちは日増しに強くなるのです。そして年を追うごとに龍は大きく成長します・・・・ だから、感情をコント―ロールして生きていくことが大事なのです。どうか皆さん、自分の中の龍を大きく素晴らしく育てて下さい。
            (ブータン王国 ワンチュク陛下)

 
 昨今、中学で武道必修化がなされた。県では空手道を選択する学校が多いと聞くが果たせるかな「ローマは一日にして成らず」・・・伝統空手道の深遠な哲理に基づく教育の要諦は照顧脚下(真剣に自己を見つめる)の実践ではなかろうか。
  


Posted by Uyanpara at 13:47Comments(0)私の想い実践武道教育
 

2012年07月26日

「奥妙在錬心」

「たかが空手、されど空手」つまるところ空手は緊急事態に「いかに平常心を保てるか」が武道である・・・ 人生は毎日が命がけの緊急事態であるよ。

・無我。「それ」は生業の中にも在る。技を無心で練り上げる誠実な継続はやがて最大奉仕の精神へと昇華する・・・・ さらに上を求めよ!あるがまま見つめよ、磨き上げられた純然たる君の精神は人類進化への貢献である、 君は もう私は私であって私じゃない事に気付いているはずだ。 そう、もう君の善悪の種実、生死の迷妄は断ち切れた・・・ そう君は「それ」だ・・・ 

「晴れて好し曇ても好し富士の山、元の姿は変らざりけり」
                                (山岡鉄舟先生)


武禅正道館は空手道実践者への武道的身体操作(護身術)の向上はもとより、空手道をスポーツや格闘競技とは捉えていないところから全く別次元の方向性を示している事が前文よりご理解いただけると思います。 
「奥妙在錬心」とは先達の言葉です・・・誰かが必ずやり続けねばならない、求め続けねばと、その意義の重大さの自覚者が空手家(武禅拳士)であり、
その意志の継続の証が武禅正道館です。

瓦割り、バット折り、喧嘩、組手に飽きた人、疲れた人、
空手を習いたいが年齢や体力的に不安な方にも
丁寧に指導します。
 お問い合わせ:090-2850-4506(宮城)
  


Posted by Uyanpara at 00:17Comments(0)私の想い実践武道教育
 

2012年07月28日

武禅正道館「喧嘩のルール」

1 「空手に先手なし」

2 武器を持ってはいけない。

3 理由なく人を殴らない、殴られてもいけない。

4 強者に媚びず、弱者をいたわれ。

5 強い者が弱い者をやっつけてはいけない。

6 降参したらそれ以上攻めてはいけない。

7 逃げる相手を追わない。

8 喧嘩を自慢しない、負けた相手の名前を他に
  言わない。

9 真の強者は「戦わずして勝つ」

10 ルールを無視する卑怯者には絶対なるな。

                 以上  


Posted by Uyanpara at 15:05Comments(0)「喧嘩のルール」
 

2012年07月30日

「食事の誓い」・・・・ 日々のあたり前に感謝。

 空手道の継続も各種スポーツを楽しむ事ができるのも 身体が資本です・・・・・ 
 
 ところで皆さん、食事はいただいていますか?食べていますか?食っていますか?食うは欲望のままに食すること。食べるは、ただモノを食すること。 いただくは尊い「いのち」に感謝して食することと・・・・ 恥ずかしながら私はこの「食事とは他の動物のいのちをいただいているにほかならない」と言う教えを、 家庭でも 学生時代も 道場でも、空手の指導者になっても暫くは気づきませんでしたガ-ン・・・・・ 尊い「いのち」をいただく、だから食事の前には手を合わせて心を込めて「いただきます」と言うのですね。そして食事が終った後には「ごちそうさま」と言い、素直に後片付けをしましょう・・・・・  日本人の家庭から出る生ゴミは年間1,000tだそうですぐすん、このままでは好きな空手もスポーツもできない時代が来るかもしれません・・・
 あたり前のことですが「いただきます、ごちそうさま」はぜひ欠かさず実践しましょう。

        
        「武禅正道館 食事の五つの誓い」 
 一 この食事が、多くの人々によって作られ、運ばれ、調えられたこと
    に感謝します。
 二 この食事をとる資格が私にあるだろうかと、自分自身をみつめて
    みます。
 三 どんな食物でも、こだわったり、とらわれたり、かたよったりしませ
    ん。
 四 この食物は天地の命を宿す良薬と思っていただきます。

 五 わたしの使命を果たすために、この食事をいただくことを誓いす。


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2012年07月31日

「吉田松陰先生のことば」

「今日よりぞ 幼心を打ち捨てて
       人と成りにし 道を踏めかし」



意味:今までは、親にすがり甘えていたが、小学生となった今日からは
    自分のことは自分でし、友達となかよくしょう。


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Posted by Uyanpara at 22:31Comments(0)実践武道教育
 

2012年08月02日

「照顧脚下(しょうこきゃっか)」・・・ 履物を揃えましょう。

諸君、君たちが誠の「自立」を勝ち得るなら、私の名も空手の型も忘れて全然構わない。しかし、「照顧脚下」履物を揃えることを決してわすれてはならない・・・・
「慶良間は見えるがマツゲは見えない」・・・・ 我が国はどこへ・・・

 ある日、ある道場の前を親子が通った。今日、その道場では海外の強者達の昇段審査が行われている様子だったそうだ。当道場のAくん小学二年生は、そっと道場の玄関に近づき 乱雑に脱がれた数足の靴を揃えて母親のところへ駆け戻ったそうだ・・・・ 勝負に例えるには悪いが、勝負は何も競技場だけで行われているのではない・・・・・
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Posted by Uyanpara at 23:43Comments(1)実践武道教育
 

2012年08月05日

「台風接近中」・・・・私の想い

「台風接近」と聞くと、幼い頃に父親の後ろに付かされて家が吹き飛ばされないようにと暴風対策を手伝わされた事を思い出すと同時に、その体験が身体に染み付いている。 当時の我が家はトタン平屋で、年々老築化する家の修善と毎年襲来する台風への備えは一家の大黒柱である親父としては 決して油断ならぬ事態であっただろう、何故なら「家を守る」は即ち家族を守り生活の基盤を守ることであったからだ・・・・
 
 時は変わり、10年前にコンクリート建てになってからは、私は空の様子を気にかけながら家の周囲と近所を軽く見回る程度であるが、その時は必ず息子も同行させている。

 さて、外はかなりの強風、土砂降りでもアルミサッシの内側は外の様子とは打って変わり平穏に過ごせる時代(日本は)になりはしたが・・・・

 ある日 坐禅が終わり、空手に移る束の間、ガラス窓に顔を付け、激しく降る雨を眺める生徒の後ろ姿が一瞬時を止めた・・・・この「ただならぬ時代」ゆえに空手道を手段として、武禅正道館は「武道教育」に深く向き合いながらのこの時代に挑むという決意を更に強めた瞬間である・・・・・


  


Posted by Uyanpara at 12:27Comments(0)
 

2012年08月07日

「台風通過」・・・・・「疾風に径草を知る」・・・タイトル変更

「感謝」・・・・台風時、農家の皆様の心中は如何ばかりか・・・


・・・すべては関わり合って存在する、「私」も人々も、地域、国家、地球も、そして君の想像する遥か宇宙までもが・・・・ 「禅」は知識ではなく、全身で解れ「体験」せよと云う・・・・ ある日、すべては網目のように限りなく繋がり永遠に関わりながら行く(在る)と気づけた時(瞬間)、「今ここ」には動かざる時、時間ならざる永遠の時に戯れる永遠の「私?」がある・・・・ 最早それは宇宙という空間、時間の概念は無い・・・ 

 ・・・・嘗て私は「生きるとは何か?死とは?自分にとって大切なもは」と必死に自分に問い続けた・・・

 ・・・青春の荒波押し来るとき、素直に「感謝」できないなら「沈黙せよ」と自分に誓った。そして私は同時に、私の沈黙は「全てへの感謝である」と私は自分自身に誓いを立てた。その時16歳の私は運よく剛柔流空手に出逢った、建前は寡黙な修練となりながらも荒波、即ち「苦悩」は容赦なく私に押し寄せてきた。今、「苦悩」と書いたが当時の私がそんな冷静に悠長な自己分析など出来るわけがない。「闇」と言おう、当時を振り返って言葉を当てはめるなら「闇」である、突如として「闇」に支配されたのだ、16までに「暗雲」が来る助走期間があったとは言い難い気もするが、密かに忍び寄りその時を狙い澄ましていたのかもしれないし、わからない・・・ と、同時に「沈黙せよ、全てに感謝せよ」と懐かしさと威厳とが混ざり合った声が聞こえた、その声は遙か遠くから力強く発せられた様でもあり、又すぐ耳元で優しく囁かれた様でもあった、二つの声は声ともいえない「・・・波動? 」として私の心に響き、言葉では言い尽くせないほどの安心と優しさで私を包み込んだ・・・青春の荒波押くるとき・・・


 ・疾風にゴーヤー(径草)を知る・・・・意味:普段は気づかないが、激しい風が吹いて周囲の草が倒れて初めて強い草が見分けられる。

毎年赤字の菜園だが、台風の風が気になり庭を見ると 桃の木に「ゴーヤーくん」がびっくり!、「ガンバレ~ガッツポーズ」・・・ オリンピックよりも「ゴーヤーくん」の応援で盛り上がった我が家でした・・・・今年□個目です。
  


Posted by Uyanpara at 23:34Comments(0)「世界」「青春の荒波」