2017年03月18日
「戦場の三戦・70年の時を経て」
「戦場の三戦・70年の時を経て」(粗筋)
・・・上陸舟艇から必死の覚悟で読谷の浜に飛び降りたMJ・・・日本軍の抵抗は無く、不気味な静かな上陸
・・・米軍の激しい艦砲射撃により破壊され焼き焦げた民家の庭に落ちていた「大きな釘(実は沖縄古武道のサイ)」が気に入り腰のベルトに挿してMJは
*
2017年、アメリカのニューヨークに住む青年が最近夢中になっている「沖縄剛柔流空手の三戦」を祖父の89年目の誕生日に自慢げに披露した所からこの物語は始まる。
(誤字脱字、乱筆悪文はどうか大目に見て下さい。チキンが忙しいので共同執筆者求む~)
・・「よし、もっと集まれ・・・先生、敵がうじゃうじゃここに向っています。昌史、もうお前はあの岩陰まで下がって見ていろ!勝手な真似はするな!これは私の最後の命令でありお前と私が生き残る作戦である。昌史、私を信じろ(昌史は、戦争が始まる平和な時の真剣な稽古でさえ見せたことの無い師の恐ろしいまでに鬼気迫る眼光で自分を射すくめる師の言葉に生唾を飲んで頷くしかなかった・・・」
師は軍服の上着を脱ぎ腰のベルトを黒帯に替え上半身裸になり、腰の後ろに一本の「サイ」を挿して大勢の米兵が銃を構える中にゆっくりと歩き出した・・・
米兵:「オイ!見ろ!あの妙なジャップのダンスは何だ?奴らはまともに飯を食ってないと聞いたがあのジャップの身体はボクサー上がりのジョンよりも強そうだぜ・・・オイ気をつけろ!奴らは何を考えているかわからないぞ・・」
米兵の隊長:「オイ!早くあのジャップの奇妙なダンスを止めさせろ!」・・「パン、パン!」
「オイ!MJ確りと狙え!」
・・・ 米兵の放つ弾丸で「師の三戦の足下に土煙が上がった」、だが師の三戦型は敵の弾丸に怯むどころか、師の両肩から煙が立ち上っているかのような、昌史も始めてみる師の凄まじい三戦に一瞬戦場を忘れて「ハッ」と我に返った(先生!先生!)
・・・硬く握り締めた拳と首里城の中庭をまるで鷲が、その鋭い爪で大地(琉球)を掴むかのような師の命がけの「三戦」、いや「命!の三戦。琉球の三戦!」・・・「パン、パン、パン!」
「パン、パン、パン、パン、パン・・・パン、パン・・・パン!」
「オイ!確りと狙え!・・・パン!やった!・・隊長!隊長!奴はまだ立っています!・・」
・・・「まて!奴は撃つな!」・・・昌史は必死に白旗を振りながら・・・
「1945年、沖縄戦終結間際の6月、首里城を取り囲む大勢の米軍兵士立ちの頭上を「龍」が勢いよく天に昇った」
*
・・「先生!皆軍と一緒に南部に下がっています・・ 先生!なぜ一人だけ首里に戻るのですか?」(先生と昌史の会話は全部方言で二人だけのときは上司と部下でなく空手の師匠と弟子の関係であった)
・・・「昌史、勝てると思うか?お前も見ただろあの海を、もう日本は負ける、勝てない、だから私は首里城に戻って最後に沖縄武士(ウチナーサムレー)の意地、日本兵としてではなく「沖縄武士」として琉球人の戦い方、命を賭けることの人生最初で最後の大勝負を私自信に試すために首里城に戻るのだ・・・昌史、君は軍と一緒に南に下がりなさい。そして命を無駄にするな、必ず行き抜け!これが私の最後の言葉(教え)だ!・・・昌史、いつか必ずこの戦争は終わりを告げるときが来るだろ、昌史いいかよく聞きなさい! 「沖縄は負けて勝つ!」・・「日本は負ける!・・だが私の魂、即ち沖縄は決して死なないのだ、私には今そのことが良くわかる、我が師法炎が「手」を通して私に伝えんとした沖縄の魂が今私の体の中にしっかりと在ることが、今!覚悟を決めた瞬間にはっきりと解ったのだよ、昌史もう私には何も恐れるものは無いんだよ・・・
・・昌史は師の言う事を素直に聞かずに必死に師に同行を願い出て、師もとうとう昌史に折れて共に首里に行くことになったのだが、その時、師に一つの名案が浮かんでいた事はあの最後の師の凄まじい「三戦」を見届ける事が師が昌史に首里への同行を許可する条件だったのだ・・・
*
(日差しの強い夏。沖縄観光に来た若いアメリカ人空手家が、嘗て沖縄戦を経験した祖父(MJ)が必ず行くようにと言残した沖縄。そこでようやく沖縄の有名な空手家の家を探し当てたのだ。それは簡素な海辺の家で、外人は背が高いから、家を囲む垣根から頭一つ出た高さから、ふと足を止めて遠くから目にしている光景)
・・・時間が止まったような古びた沖縄家屋の居間に、老人と孫と思われる小さな影が二つ。一つは12、13歳頃のお兄ちゃん?らしき男の子と、その横に4.5歳ぐらいであろうかポッンとあどけなく正座をして、祖父と思われる老人からなにやら兄の方が「空手の型」を習っていて、その二人の稽古をだまって見ていた女の子が縁側に腰掛ける祖母から(省略)
・・・何やらおそらく「三戦」を習っている様・・・又庭に40cmほど張り出した、最近作ったばかりにみえる横2メートルほどの小さな縁側には子供達の母親であろう若い女性が、もう深く腰の曲がった、しわの深いおばぁちゃんと(省略)
・・古い赤瓦で、年代を感じさせる小さな家には、それも古いが不釣合いなほど大きくて立派な沖縄の位牌を背にした老人と少年は(省略) ・・・踏み込めば簡単に床が抜けそうな狭い茣蓙敷きの居間で
少年の祖父(昌史)は70年前の沖縄戦の生き残りで(経験者)、85歳を過ぎた今でも当時空手の師匠の壮絶な最後(勝負)を、つい昨日の出来事の様に鮮明に記憶に焼きついていて、不断はソーミナー(メジロ)」を見ながら優しく昔の武人の武勇伝を孫達に聞かせてくれるが、同時に孫達にとっては「空手の大家」でもる自慢の祖父であり、あの70年前の壮絶な体験
・・・上陸舟艇から必死の覚悟で読谷の浜に飛び降りたMJ・・・日本軍の抵抗は無く、不気味な静かな上陸
・・・米軍の激しい艦砲射撃により破壊され焼き焦げた民家の庭に落ちていた「大きな釘(実は沖縄古武道のサイ)」が気に入り腰のベルトに挿してMJは
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2017年、アメリカのニューヨークに住む青年が最近夢中になっている「沖縄剛柔流空手の三戦」を祖父の89年目の誕生日に自慢げに披露した所からこの物語は始まる。
(誤字脱字、乱筆悪文はどうか大目に見て下さい。チキンが忙しいので共同執筆者求む~)
・・「よし、もっと集まれ・・・先生、敵がうじゃうじゃここに向っています。昌史、もうお前はあの岩陰まで下がって見ていろ!勝手な真似はするな!これは私の最後の命令でありお前と私が生き残る作戦である。昌史、私を信じろ(昌史は、戦争が始まる平和な時の真剣な稽古でさえ見せたことの無い師の恐ろしいまでに鬼気迫る眼光で自分を射すくめる師の言葉に生唾を飲んで頷くしかなかった・・・」
師は軍服の上着を脱ぎ腰のベルトを黒帯に替え上半身裸になり、腰の後ろに一本の「サイ」を挿して大勢の米兵が銃を構える中にゆっくりと歩き出した・・・
米兵:「オイ!見ろ!あの妙なジャップのダンスは何だ?奴らはまともに飯を食ってないと聞いたがあのジャップの身体はボクサー上がりのジョンよりも強そうだぜ・・・オイ気をつけろ!奴らは何を考えているかわからないぞ・・」
米兵の隊長:「オイ!早くあのジャップの奇妙なダンスを止めさせろ!」・・「パン、パン!」
「オイ!MJ確りと狙え!」
・・・ 米兵の放つ弾丸で「師の三戦の足下に土煙が上がった」、だが師の三戦型は敵の弾丸に怯むどころか、師の両肩から煙が立ち上っているかのような、昌史も始めてみる師の凄まじい三戦に一瞬戦場を忘れて「ハッ」と我に返った(先生!先生!)
・・・硬く握り締めた拳と首里城の中庭をまるで鷲が、その鋭い爪で大地(琉球)を掴むかのような師の命がけの「三戦」、いや「命!の三戦。琉球の三戦!」・・・「パン、パン、パン!」
「パン、パン、パン、パン、パン・・・パン、パン・・・パン!」
「オイ!確りと狙え!・・・パン!やった!・・隊長!隊長!奴はまだ立っています!・・」
・・・「まて!奴は撃つな!」・・・昌史は必死に白旗を振りながら・・・
「1945年、沖縄戦終結間際の6月、首里城を取り囲む大勢の米軍兵士立ちの頭上を「龍」が勢いよく天に昇った」
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・・「先生!皆軍と一緒に南部に下がっています・・ 先生!なぜ一人だけ首里に戻るのですか?」(先生と昌史の会話は全部方言で二人だけのときは上司と部下でなく空手の師匠と弟子の関係であった)
・・・「昌史、勝てると思うか?お前も見ただろあの海を、もう日本は負ける、勝てない、だから私は首里城に戻って最後に沖縄武士(ウチナーサムレー)の意地、日本兵としてではなく「沖縄武士」として琉球人の戦い方、命を賭けることの人生最初で最後の大勝負を私自信に試すために首里城に戻るのだ・・・昌史、君は軍と一緒に南に下がりなさい。そして命を無駄にするな、必ず行き抜け!これが私の最後の言葉(教え)だ!・・・昌史、いつか必ずこの戦争は終わりを告げるときが来るだろ、昌史いいかよく聞きなさい! 「沖縄は負けて勝つ!」・・「日本は負ける!・・だが私の魂、即ち沖縄は決して死なないのだ、私には今そのことが良くわかる、我が師法炎が「手」を通して私に伝えんとした沖縄の魂が今私の体の中にしっかりと在ることが、今!覚悟を決めた瞬間にはっきりと解ったのだよ、昌史もう私には何も恐れるものは無いんだよ・・・
・・昌史は師の言う事を素直に聞かずに必死に師に同行を願い出て、師もとうとう昌史に折れて共に首里に行くことになったのだが、その時、師に一つの名案が浮かんでいた事はあの最後の師の凄まじい「三戦」を見届ける事が師が昌史に首里への同行を許可する条件だったのだ・・・
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(日差しの強い夏。沖縄観光に来た若いアメリカ人空手家が、嘗て沖縄戦を経験した祖父(MJ)が必ず行くようにと言残した沖縄。そこでようやく沖縄の有名な空手家の家を探し当てたのだ。それは簡素な海辺の家で、外人は背が高いから、家を囲む垣根から頭一つ出た高さから、ふと足を止めて遠くから目にしている光景)
・・・時間が止まったような古びた沖縄家屋の居間に、老人と孫と思われる小さな影が二つ。一つは12、13歳頃のお兄ちゃん?らしき男の子と、その横に4.5歳ぐらいであろうかポッンとあどけなく正座をして、祖父と思われる老人からなにやら兄の方が「空手の型」を習っていて、その二人の稽古をだまって見ていた女の子が縁側に腰掛ける祖母から(省略)
・・・何やらおそらく「三戦」を習っている様・・・又庭に40cmほど張り出した、最近作ったばかりにみえる横2メートルほどの小さな縁側には子供達の母親であろう若い女性が、もう深く腰の曲がった、しわの深いおばぁちゃんと(省略)
・・古い赤瓦で、年代を感じさせる小さな家には、それも古いが不釣合いなほど大きくて立派な沖縄の位牌を背にした老人と少年は(省略) ・・・踏み込めば簡単に床が抜けそうな狭い茣蓙敷きの居間で
少年の祖父(昌史)は70年前の沖縄戦の生き残りで(経験者)、85歳を過ぎた今でも当時空手の師匠の壮絶な最後(勝負)を、つい昨日の出来事の様に鮮明に記憶に焼きついていて、不断はソーミナー(メジロ)」を見ながら優しく昔の武人の武勇伝を孫達に聞かせてくれるが、同時に孫達にとっては「空手の大家」でもる自慢の祖父であり、あの70年前の壮絶な体験
Posted by Uyanpara at 00:05│Comments(0)
│「姫の桜・武禅の風」